あなたはなぜ生きるのですか

私はできることなら、全人類、一人ひとりに聞いて回ってみたい。「あなたはなぜ生きるのですか?」と。

そんな質問を唐突にする人を想像してみたら、すごく嫌味な人に聞こえる。「あなたはなぜ死なないのですか?(死ぬべきなのに)」みたいなニュアンス。でも私が聞きたいのはそういうことではない。もっと、ずっと、純粋に、あなたが今を生きる、あなたなりの理由を聞きたいのである。

私たちは死ぬことができる。自分の意思で死ぬことができる。
でも、生きている。多くの人々は生きることを続けている。
なぜ私たちは、生きるのだろうか

(中には自ら命を絶つ人もいる。彼らの心情はまたの機会に深く考えたい。まだ深い思考力のない私から今言えるのは、私はあなたには死んでほしくない、たとえ見ず知らずの人だとしても。という独りよがりな願望だけである。死ぬくらいなら私とまずお話しさせて。)

そもそも私たちは、人間は、生きることを「選択」しているのだろうか。「生」と「死」の選択肢がある中で、自らの意思で「生」を選んで生きているのだろうか。

少なくとも日常生活において、自らの意思が「生」を選択していると意識することはないだろう。おなかがすいたらご飯を食べ、疲れたら眠るように、自然に活動すれば人間は生き続けられる仕組みになっている。

この生き方に従うなら、意思がなくても勝手に生き続けるのだから、私たちに生きる意味があるかどうかは関係ない。でも、それはほかの生物と何ら変わらない、ただの生存本能ではないか。

ほかの生物とは違う、人間らしさは、生きることに自ら意味を持たせられることなのではないか。「○○だから、私は生きる」「○○のために、私は生きる」という生きることへの意味付けが、「生」を自分の意思で選択していることにつながる。

さて、「なぜ生きるのか」を考えていたら、「人間とは何か」という大きな疑問に一つの答えが掲げられた。

人間とは、人生の意味を自分で意味づける生物である。

 

(困ったことに、この定義だと私は人間ではなくなってしまう。私はなぜ生きるのか未だ暗中模索の身。五里霧中、光はどこから差し込むのか。私にとっては生きる意味探し自体が今の生きる意味なのかもしれない。)

あなたはなぜ生きるのですか?

私はできることなら、全人類、一人ひとりに聞いて回ってみたい。「あなたはなぜ生きるのですか?」と。

そんな質問を唐突にする人を想像してみたら、すごく嫌味な人に聞こえる。「あなたはなぜ死なないのですか?(死ぬべきなのに)」みたいなニュアンス。でも私が聞きたいのはそういうことではない。もっとずっと純粋に、あなたが今を生きる、あなたなりの理由を聞きたいのである。

私たちは死ぬことができる。自分の意思で死ぬことができる。でも、生きている。多くの人々は生きることを続けている。

(中には自ら命を絶つ人もいる。彼らの心情はまたの機会に深く考えたい。まだ深い思考力のない私から今言えるのは、私はあなたには死んでほしくない、たとえ見ず知らずの人だとしても。私が支えたい。という独りよがりな願望だけである。)

死ぬ選択肢が常にある中で、なぜ私たちは生きる選択をしているのか。